大切なもの、気付いてますか?
近所にある大きな桜木。 俺が産まれたときからずっと立っているその木は、毎年春になると綺麗な桜を満開に咲かせる。 「風邪ひいちゃうよ?」 澄んだ透明な声が、俺を包みこむ雪の中に響いた。 俺はその声には返事をせず、ただただ雪の積もった桜木を見つめていた。 そっと右手に感じた温もりを、俺はぎゅっと握りしめた。 雪は止む気配などなく、空からいくつもの結晶を降らせ続けている。 俺は、目を瞑りその雪の冷たさを感じていた。 隣の少女も、俺と同じように雪と触れ合っていた。 「お前……苦しかったんだろ?」 俺の言葉に、少女は何の返答もなさなかった。 ただ、右手の温もりだけは感じられた。 「苦しくて辛くて……恐かったんだろ?」 暗闇の中、頬に冷たいものが落ちる。 少女の声が響くことはない。 「なぁ、どうして助けてって言わなかったんだよ……!」 俺は目を開き、隣にいる少女へと目を移し、声を荒げた。 しかし、そこには誰も立ってなどいなかった。 俺の右手は、雪の冷たさで冷え切っていた。 「ちくしょう、なんで言わなかったんだよ……(せつ)!!!」 俺はその場に座り込み、白い絨毯にいくつもの雫を落とした。 ********** 島崎雪(しまざきせつ)。 俺の大切な、世界に一人だけの――妹。 雪はいつも笑ってる明るい妹だった。それに、俺と違って頭もいい。 俺の自慢の妹だったんだ。 「(せい)くん、またゲーム出しっぱなし!」 「悪い、悪い。片付けといてよ」 「もー、いっつもなんだから」 「雪ー、腹減ったー」 「仕方ないなぁ、何食べたい?」 「ステーキ」 「了解、ラーメンね!」 「おぉ、また勉強か?」 「勉強だけが私の取り柄だもん」 「はは、さっすが俺の妹だわ」 「うるさいなぁ、もう。勉強の邪魔だから出てった! 出てった!」 まだまだ、雪との思い出は浮かんでくる。 だけど、傷心に浸ってる場合じゃないんだ。 俺にはしなきゃならないことがあるんだから。 ********** 私はお母さんとお父さんの笑顔が大好き。あ、もちろん晴くんの笑顔も好きだよ。 今まで、私は両親の笑顔が見たくて一生懸命頑張ってきたんだ。 小学校でも、中学校でも、ずっと一番を取ってきた。その度に、両親は笑顔になって私を褒めてくれた。 だから、そんな大好きな両親の為にも、私はいい高校に行っていい大学を出て、いい会社に就職してもっと笑顔にさせてあげたかった。 そんなことを思いながら、毎日毎日勉強を頑張ったおかげか、有名な進学校への合格が決まった。 本当に嬉しかった。合格したことよりも、両親が喜んでくれたことに、ものすごい喜びを感じた。 「雪、やったね! おめでとう!!」 「さすが雪だ! お父さん、嬉しいよ」 でも、私の未来は明るいことばかりじゃなかったんだ。 どうしてこうなってしまったんだろう。 情けなくて、涙が……止まらないよ。 ********** 『止まらない涙』 それは、雪が運営しているブログの名前だった。 そこには、今までの雪の苦しみ、辛みが書かれてあった。  どうして私は、産まれてきたんだろう。  両親を笑顔にできない私なんて……要らない存在でしかないのに。 ごめんな、雪。お前……こんなにも苦しんでたんだよな。 ********** ピッピッ、と雪の命を伝える機械音が響いている。雪は目を開かないまま、ベッドに横たわっている。 その傍らには、少しやつれた両親の姿が。俺はそっと、二人に一枚の紙を渡した。 「雪の部屋にあった。読んでやって」 それ、あんたらに向けて書いた手紙だから。と一言付け加え、俺は雪の眠る病室を出て行った。 病室を出て、扉の前に座り込む俺。 雪の部屋にあった、日記帳の中に挟まっていた一枚の手紙。そこに書いてあったことを思い出して、服の裾で目をこすった。 ふと扉の向こうに耳を傾けると、中から父さんと母さんのすすり泣く音が聞こえた。 「産まれてきてごめんなんて、言うんじゃねぇよ」   お父さん、お母さん、晴くん。ごめんね。もっと私が皆を笑顔にさせてあげたかったのに。私が、こんなやつだから。   お父さん、お母さん、こんな子でごめんなさい。晴くん、こんな妹でごめんなさい。   皆を笑顔にできなくなった私なんて、もう生きてる資格がないよね。だけど、もっと皆といっぱい生きたいんだ。   痛みに逃げちゃった私だけど、もっともっと皆といたいんだ。でも、そんなの迷惑だよね。   どうして私みたいな人間が、産まれてきたんだろうね。   産まれてきて、ごめんなさい。死ぬ勇気がなくて、ごめんなさい。 雪が、こんなに追い詰められてたことに気付けなかったなんて……バカな兄貴だ。バカな母さん。バカな父さんだ。 俺らは、本当に愚か(バカ)な家族だよ。 高校二年生の夏、ある日を境に、雪は毎日のようにリストバンドを付け出した。 母さんが、それを指摘すると、雪は屈託のない笑顔で、「引退しちゃう部活の先輩がくれた物だから、ずっと付けてたいんだ」なんて言うから、バカな俺らはそれを信じてたんだ。 あれは、雪が出した初めてのSOSのサインだったのにな。今思い返してみれば、雪は、いくつものサインを出してたんだ。 大好きな温泉に入りたがらなくなったり、学校の水泳を無断で見学したり。 それに、学校の筆箱にカッターを入れるようになったり、自分の部屋に籠るようになったりしてたのに。 どうして気付いてやれなかったんだ。 どうして助けてやれなかったんだ。 本当に不甲斐ない兄貴で、ごめんな……。 俺は、その場に立ち上がり病院を後にした。 雪とこれからを生きていくためにも、俺にはしなきゃならないことがあるんだ。 ********** 「どうして、こんなになったのかしら……」 お母さんが、私の左手首に向かって小さな溜息と共にそう言ったとき もう、ダメだと思った。 普通に学校から帰宅して、普通にご飯を食べて、普通にお風呂に入る。そして、いつものように手首に紅を咲かす。 そんないつもと変わらない日常。このまま夜が来て、朝が来て、私は学校に行く。 だけど、私の思い浮かべる日常は、この日を境に変わってしまった。 ――ガチャリ それが、私の日常を変えた音だった。 「雪……あなた、また成績落ちたみたいね」 そんなことを言いながら自室に入ってきたお母さん。 最近はお母さんが部屋に入ってくることがなかったから、油断していた。 私の右手には、本来手首に当てるものではないものがあった。左手首は、紅に濡れていた。 「雪!! 何してるの……!!!」 お母さんは凄い形相で、私の右手から刃物を叩き落とした。 私は何が起こったのか理解できないでいた。 頭が真っ白になった。体は動かなくなった。体温なんてものはなくなった。 手足は震えだした。声が出ない、出せない。息はできてる? 息の仕方が分からなくなった。 お母さんが何か言ってる。だけど、何も考えられない。何も理解できない。 何? 私はどうなってるの? 今、どういう状況なの? どうして、お母さんは怒ってるの? どうして、お母さんは私の頬を叩くの? どうして、お母さんは抱きしめてくれないの? 「どうして、こんなになったのかしら……」 どうしてそんな気持ち悪いものを見るような目で……私を見るの? 気が付けば、私は走り出していた。行き先なんてない。ただ、逃げ出したかっただけ。 あの目から、あの言葉から。あの、母親から。 涙が溢れて止まらない。止まらない。止まらない。 紅い涙が、透明な涙が。 ふと右手を見ると、さっき私に傷を付けた剃刀があった。無意識に持ってきてたんだ。 後ろから晴くんの声が聞こえた気がした。だけど、私は気にせず走り続けた。必死に走り続けた。 雪が降っていることになんて気が付かないほどに、私は必死に走り続けた。 どれだけ走っていたんだろう。私の涙は止まっていた。 「ふふ、ちょっと走りすぎたかな……疲れちゃった」 私はその場に座り込み、涙を零した。 その涙は、今まで感じたどの涙より、暖かく、とても開放感のあるものだった。 「もっと、生きたかったな」 私の最後の言葉。それを聞いてくれていたのは、満開な桜を咲かせた桜木だった。 ********** 俺の向かった先には、若い少年と少女がいた。 「君たちが、(れい)くんと凪沙(なぎさ)ちゃん?」 そう尋ねると、二人の少年少女は真直ぐした瞳で俺を見てきて、はい、と応えてくれた。 俺はそんな二人に、言葉を繋げる前に頭を下げた。 ただただ無言で頭を下げた。少女が慌てた声で、頭をあげて下さい! と言っているのが聞こえる。 「お兄さん、頭をあげて下さい。あなたが頭を下げる必要はありません」 柔らかい口調、けれど芯のある声。少女とはまた違うその声は、少年のものだった。 それでも、俺は頭をあげることはしない。否、あげることが、できなかった。 「俺たちは、あいつの家族なのに、あいつの痛みに気付いてやれなかった。そして君たちは、そんな妹を、暖かい言葉で支えてくれてたんだ。そんな君たちの前で、俺は頭をあげることは、出来ない……!!」 俺は自分の言葉を聞いて、あることに気が付いた。あぁ、俺、泣いてるのか。 「お兄さん……あなたは、勘違いをしてますよ」 頭上からではなく、直接耳へと送られてきた可愛らしい声。少女が、しゃがみながら話しかけてくれていた。 「私たちは、ブログの中で言葉を送っていただけ。支えてただなんて、そんな大層なことはしてないんです」 少女は、立ち上がりながら、優しい声色で寂しそうにそう言った。その言葉には、とても悔みが籠っていた。 「支える、という意味は、物を抑え止め、落ちたり倒れたりしないようにすることです。でも、彼女は落ち倒れてしまった」 俺たちは、支えてなんていません。と小さく呟いた彼の言葉にも、彼女と同じ感情が籠っているように感じた。 「でも、だからこそ、私たちは今日ここに来たんです」 「これから先、ずっと……雪を支えてやりたいから」 二人の口から出た言葉に、俺は頭をあげた。そこにあったのは、潤みながらも温もりの込められた瞳だった。 「俺たち、同じこと考えてたんだな」 二十歳前後の男女が、涙を流しながら話すことなんて、もうできない経験なんだろうな、なんて思いながら俺は二人の瞳を見つめた。 「じゃあ、行こうか?」 うん。あぁ。 それぞれが俺の言葉に応え、俺たちは、並んで歩きだした。 俺は両隣を歩く雪の友達へ、声には出さず、ひとつの言葉を贈った。 その言葉を声にして伝えるのは、雪の仕事だ。 ********** 白い雪の上に零した涙は、次々と降ってくる綺麗な結晶に埋もれてしまった。 俺は立ち上がり、再び目を瞑り、まだ桜の咲かない桜木を見つめた。 雪、次は俺たちがお前を笑顔にさせてやる番だ。 「お前は、生きていいんだよ」 俺の呟いた言の葉は、桜が満開に咲いた桜木に舞っていった。 End
write 10/10/23